2014年10月25日

某月某日

某月某日
ねむってもねむってもねむい。覚醒しているのにあたりが暗いと起きる気がしない。すこし寒いし。
通勤時に読んでいた金田理恵『ぜんまい屋の作文』を電車の中で読了。
龜鳴屋の勝井さんがつくった本。買う機会を逃していたところ、阿佐ヶ谷のコンコ堂で見つけた。あれはことしの、夏になる前のことだったか。

「初夏の夕暮れだった。空にはばら色の雲が浮かんで、あたりの光もちょっと甘く染まっている。ほの暗くなった木陰に咲いた白い花房に向き合って、ハチが羽音をたてていた。そのとき、今、このハチと花の間に宇宙のへそがあるよ、と言われたら、すんなり信じられる、と思った。へそなんて、存外そんなところにあるものだ。」(「きれっぱし」『ぜんまい屋の作文』)

わたしも単純な生活に憧れる。


某月某日
頭痛がひどく帰宅してからすぐにねまきに着替えて眠る。「読むように書く」とはどうやったらできるのか。時間や記憶をつなげる。3時頃目が覚める。頭痛がまだ続いていた。


某月某日
衣替えをする。
「あら、お姉さま。いまから隣町で葬儀でもございますの?セバスチャン、セバスチャン!馬車をお出し!」
会うなり、そんな寸劇を始めたあと、「お姉ちゃん、そんなコート着てるよ」と溜息まじりに妹に言われたことが忘れられない。
クラシカルな形の、黒のロングコート。たしか買ったばかりだった。言われるとわりに気にするほうだから、ずっとクローゼットに入れっぱなし。でもまだ捨てられない。袖を通す度に、セバスチャンに馬車で隣町に運ばれるような気がしてしまう。


某月某日
維新派の屋台にgさんと行く。沖縄そば、ホットフルーツワイン、ホットチャイなど。寒いなか、焚き火のオレンジ色がゆらゆらしていてあたたかだった。大阪に住んでいるなあとおもった。チケットをとったらよかったな。

某月某日
「隣屋敷の蜜柑畠をかいま見ながら、臥床(ねどこ)を離れたばかりの、朝の間のそういう時間でなければ決して覚えることのない、ただふとした何の奇もないものに対する鮮明なー現象液によって今そこに洗い出される印画のように鮮明なちょっと言語道断の興味を、詩興というほどまとまったものではないまでも、とにかく潑剌とした感興を、私はそういう時に覚えることがすくなくない。」(「小庭記」『三好達治随筆集』)

「永く私の記憶に残る」ものについて考える。


2014年10月18日

10月17日(金)

朝、5時台に起きると、あたりはまだ暗い。朝がほんとうに短くなった。
珈琲を飲みながら、立原道造の「啞蟬の歌」を読む。三好達治に捧げられた詩だそうだ。
啞蟬。鳴かない蝉。
この夏、たくさんの蝉の声を聞いた。だけど、あの声は雄だけのものなのだ。鳴くこともなく、ひっそり命をおとしていく雌の蝉。いや、あんな風に激しく鳴く必要がないだけ、心穏やかななのかもしれない。

この詩はどの本に収められているのだろう。そんなことを考えていたら出勤の時間はすぐ訪れた。

退勤して図書館へ。
ことし、生誕100年だという立原道造の小さなフェアが展開されていた。その横では「三好達治と三好達治賞の詩人たち」というコーナーが。清水哲夫や高階杞一、長田弘などの詩集が並べられたいた。
この図書館に詩が好きなひとがいるんだろうか。今朝、わたしが考えていたことがどうしてわかったの。こころの中で矢継ぎ早に言葉がうまれる。棚を眺めながら小さな偶然がとてもうれしかった。
小さなコーナーにあった立原道造の全集をぱらぱら捲ったけれど、「啞蟬の歌」は見つからなかった。(わたしの見つけ方が甘い)かわりに『三好達治随筆集』を借りて帰る。

「私も来年は四十である。」という一文からはじまる「秋夜雑感」をいう文章を、秋の夜に読む。わたしも来年で四十になります、とおもいながら。

「全く生きているということは、考えてみると、偶然を幾重にも積重ねたーそうしてなお不断にそれを積重ねている、危っかしい建築物の危っかしい建築工事のような気持ちがするのである。かく我々の在るはただ主なる神の憐憫によってのみ。」(「秋夜雑感」三好達治『三好達治随筆集」より)

きょうあった小さな偶然をまたひとつ、ゆらゆらと積重ねる。

「大阪靭」という文章も読む。
三好達治は大阪の西区靭にあった小学校を出たという。わたしは数年前まで靭本町に住んでいた。(かのS団地は靭本町にある)
靭のあたりは乾物問屋が軒を並べていたそうだ。(二百戸にも近かったろうか、と書かれている)
靭本町にはいまや、そんな痕跡は全く残っていなかった。(とおもう)
あの町の、どのあたりにある小学校に通っていたんだろう。そんなことも知らずに、わたしはあの町で暮らしていた。













2014年10月16日

10月14日(火)

「文章のもつすべての次元を、ほとんど肉体の一部としてからだのなかにそのまま取り入れてしまうということと、文章が提示する意味を知的に理解することは、たぶん、おなじではないのだ。」(須賀敦子「葦の中の声」/『遠い朝の本たち』所収)


それは文章を読むことに限らず、音楽を聞くこと、映像や写真を見ること、芸術作品を鑑賞することにも通じる。作品が持つ背景や文脈を知的に理解できずとも、感覚の深いところで、無意識に近いところで、「なにか」を感じ、こころが震えることがある。きっとそんなとき、からだに作品をそのまま取り入れてしまっているのだろう。そのことの尊さ。
ただ、知的に理解することも、静かで深い感動があって、こころへの刻みは深い。

火曜日、仕事が終わって、梅田へ。
ラース・フォン・トリアーの『ニンフォマニアック』を見る。映画を見る前にgさんと待ち合わせして、グランフロントでカオマンガイを食べる。
gさんは幼少期をシンガポールで過ごしており、ずいぶん昔、よく「チキンライスが食べたい」と言っていた。チキンライスと言えば、日本人は赤いケチャップご飯を想像するが、シンガポールのチキンライス(海南鶏飯)は、丸鶏をゆでて、そのゆで汁でご飯を炊いた、、まあ、今の日本ではよく目にするようになったあれである。(15年くらい前はあまりなかった。)
カオマンガイはシンガポールではなく、タイ料理だが、まあ、似たようなものである。

ラース・フォン・トリアーの作品を、まるで義務のように見ているが、もはや見たいんだが、ほんとうは見たくないんだが、わからなくなっている。
トリアーが過激な性描写をまるで苦行や修行のように描くのと同じように、わたしもまた、修行する気持ちで見ているような気がする。見たくないのに見る。不思議な感覚だ。

やはり、作品の底辺にあるのは宗教なのであろうと個人的にはおもっていて、わたしの理解では辿り着けない場所であるなあと諦めの気持ちだ。
「女性のセクシュアリティ」をテーマに据えた作品って、嘘だろ、って感じだ。

過度に純粋なのか、ただのうすら馬鹿なのか。
脇目もふらず、目指した方向に一直線に進んでいくような女がトリアーの作品には出てくる。「これしかない」「こうするしかない」という信じ込んだ女たちの、その目がわたしはすきだった。

それは何かを強く、深く、脇目もふらず信じてみたいという、わたしの願望のあらわれかもしれない。

2014年10月13日

10月12日(日)

米田知子「暗なきところで逢えれば」を姫路に見に行く。
JR大阪駅でgさんと待ち合わせをした。お互いに使う改札が違うので、「じゃ、ホームで」ということだったのだが、いっこうに姿が見当たらない。
そうこうしているうちに、乗車する電車が来た。お互いに先頭車両に乗っていると言い張るが、姿がない。
話は簡単で、わたしが姫路行きではなく、逆方向の京都行きに乗車していたのだった。新大阪で気づけてよかった。
どこ行きなどあまり確認せずに、来たものに乗ってしまうという、そういう要素がわたしにはある。間違った方向にずんずん歩いてしまうこともある。

姫路まで1時間、おしゃべりしようとおもっていたのに、結局、それぞれ行くことになった。窓際に座って、本を読む。
秋の、控えめな光が降り注ぐ。目を閉じても、否応なしに侵入してくる、あの夏の強引な(その強引さがすきだけど)光とは違って、遠慮がちでやさしい。

本を片手に寝入ってしまう。目ざめたら、須磨で、車窓には海が広がっていた。空も海も、霞んでいた。くっきりしない風景。

姫路に着いたら、中央改札の前でgさんが回転焼きを食べながら待っていた。「逆方向に乗るなんて、そりゃおらんわな」と言った。
駅を出ると、遠くに姫路城が見えた。ほんとうに白い。gさんが「あれ、プレハブ?」と聞いてくるので、「そんなわけないじゃない」と言いつつ、そんな質問をする意図がまるで分からないでいた。謎なひとだ。

米田知子の写真はすばらしかった。
見えるものと見えないもののあいだ、記憶と不確実さの彼方、パラレル・ライフ。
わたしたちは、風景や物をいかようにも見ることができるし、見ないこともできる。それは書物をいかようにも読めることと似ているようで違う。
いろんなことの背景や歴史や、そういうことをちゃんと知って、何かを見るということは、読むということはやっぱり必要なのだろうか。実はそこについては答えが出ていない。ただ、知らないと見えないものがあるのは確かだ。

「見えるものと見えないもののあいだ」では、作家が書いた文章を作家のかけていた眼鏡ごしに見ると、焦点のあたっている部分は文字がくっきりしているのだけど、そうじゃないところはぼんやり。当たり前のことだけど。
きっと、みんな、そんな風に世界を見ている。焦点のあたってないところはあんまり見えない。
それで、自分がかけていた眼鏡をとってその写真を見たら、作品全部がぼんやりで、というか、美術館内すべてがぼんやりで、わたしは裸眼で世界を見たら、きっとすべてがどうでもよくなるな、眼鏡ってすごいとおもった。

照明の関係か、作品にじぶんの姿がわりにはっきり映ったのが気になった。
でも、その姿を見ながら、幾人もが同じ写真を見ただろうことをおもった。知人の中にも米田知子の作品展(姫路や東京で)を見たひとは多いので、そのひとたちのことも考えた。彼らは何を考えながら見たのだろうか。とか。

感動しながら作品を見ていたら、密着度1000%くらいのカップルが視界に入って来た。というか、追い越された。
すこし離れたところにいたgさんに「あのひとたちが視界から消えてから、次の作品見に行こう」と言う。こういうのはほんとうに興ざめする。
見終わった後、gさんが、「すごい剣幕だったー。」と笑っていた。

年を重ねても、許せないことが減らない。すこしは丸くなりたいものだ。

姫路のカフェでご飯を食べた後、「あのみそ汁、ないわ。わかめがベロベロだったもん。わたしが作ったのより不味い」と、また文句を言いながら大阪まで帰った。

















2014年10月12日

10月11日(土)

リュックを背負って郵便局まで散歩する。
シャツの袖をすこし折って着ていたのだが、その格好がちょうどいいような、どこまでも歩いて行けるような、心地のいい温度。
でも、空腹すぎて目眩。
先日、琴子さんとお茶した喫茶店にはいって、パスタを注文する。ああ、これでやっと落ち着いた、本を読もうとと鞄を探したが、あるはずの本がない。
どうしてこんな時に限って。
ひとりで喫茶店にはいって、注文して、その料理が出てくるまで、本を読まないひとはなにをして過ごすのだろう。パスタが出てくるまでが途方もなく長いような気がした。

古書市をやっているので、四天王寺まで歩く。
たくさんの本が並ぶ。遠くから眺めるだけで疲れてしまって、近くで本を探す気になれなかった。そもそも、欲しい本はあるのか。
文庫を2冊だけ買うにとどまる。
須賀敦子『遠い朝の本たち』(ちくま文庫)
西脇順三郎『野原をゆく』(講談社文芸文庫)

一色文庫に寄る。「儲かってる?」と尋ねると、いつもなら「儲かってへんわ」とか言うのに、「えー、なにー?」と適当な感じでかわされるので、「なんや、こいつ」とおもったら、奥のほうに別にお客さんがいた。他にお客さんがいるときは、親しげに話すのはよくない、それをわかっている一色文庫はえらい。
現代詩文庫の松浦寿輝を買って、そそくさと店を出る。

どこまでも歩けそう、とおもったのに、結果、隣町までしか歩かなかった。
帰宅したら、手紙が届いていた。
「狭山公園の秋の贈り物です」と、トチの実とクヌギの実、コナラのどんぐりが同封されていた。
「机の上にでも置いてしばし眺めていただければ、この子たちも喜ぶでしょう」と書かれていて、樹木の実を「この子たち」と呼ぶのが、かわいいなあ、とおもった。
鉢で育てたら発芽して、大木になります。と最後に書いてあって、木を育てるなんて、わたしには無理ですよ。とおもいつつ、狭山公園の木を育てるじぶんを想像してみた。




2014年10月11日

10月10日(金)

定時退勤して、『フランシス・ハ』を見に行く。シネマート心斎橋。
心斎橋に行くのは久しぶりで、若いひとが多くて驚く。わたしのような種類の人間はあまり歩いていない。
そんなこと言ったら、オフィス街の肥後橋や本町や、住む町である谷町九丁目にも、わたしのような人間はあまり歩いていない。
人の溢れる梅田でも、容易に友人gさんを見つけ出すことができるのは、大勢のなかで明らかに浮いているからだろうとおもうけど、わたしもそんな風になっているのかもしれない。

『フランシス・ハ』に出てくる主人公の友だち、ソフィーはジュディ・シルにすこし似ていた。痩せすぎの、神経質な細面の顔、ストレートのロングヘアー、おおきな眼鏡。理知的なつめたいまなざし。
萩尾望都のマンガに出てくる「悪魔的先輩」(いつぞや誰かがジュディ・シルはそんな感じだ、と書いて、とても共感したのだ)に通じるタイプ。わたしの好きなタイプ。

心地いい暮しや、幸せは人それぞれで、他人と比べてはいけないのだ。映画を見終わった後、そうおもったけど、他人と比べないのは難しい。比べるからしんどいというのはわかっているのだけど。

とぼとぼ家に帰って、きょうも夕食は食べない。


2014年10月10日

10月10日(金)

きのう。帰宅して疲労と空腹を天秤にかけて、疲労が圧勝したために、すぐにねむった。ということで、きょうは3時くらいから起きている。
もともと、労働後の夜に活動できず、すこしばかりある集中力は朝しか発揮しない。その朝がどんどん短くなっているのはさみしい。もう冬がやってくる。
衣替えをしなければいけない。チェックのキルトスカートがほしい。

朝、一枚、はがきを書く。




2014年10月9日

10月8日(水)

堂島川にゆらゆらうつる町のひかりを、ぼんやり眺めていたら、酔いそうになった。
顔をあげると通りを歩くひとたちが、携帯のカメラでなにやら撮影している。その方向を見ると、空の低い位置におおきな月がでていた。
そういえば、きょうは月蝕だ。だけど、見上げたときはまだ、まるい月だった。

本屋で新書を3冊購入して、東梅田まで歩いて地下鉄谷町線に乗る。谷町九丁目に着いて、上本町のマクドナルドで本を読む。
頭の悪そうな高校生がたくさん、宿題をしていた。隣に座る女の子も漢文を。
しかし、マクドナルドに来たのはひさしぶり。珈琲が値段のわりにまずくないのに驚く。
すこし前までは、胃が痛くなるくらい、深煎りの濃い珈琲を好んで飲んでいたけれど、最近はそういうのは駄目だ。年のせいか。

篠つく雨、
そんな言葉がはじまる文章を読んでいたけど、上本町のマクドナルドの喧噪が、正確に言えば、隣の席の女子高校生のおしゃべりが、侵入してきて、なんだかなという感じだった。
そういう時は、眼鏡をはずして、本を近くに持ってくる。マクドナルドにいるひとびとはぼんやりとしか視界に入らず、そうしていると、彼らが話す言葉も聞こえなくなる。
いつのまにか、雨の降るミラノにいた。

マクドナルドを出て、欠けた月を探したが、空にはなにもなかった。
せめて雨でも降っていればいいのに、とおもいつつ、ラブホテルのピンク色のネオンを眺めながら家に帰った。